一般社団法人 日本経済団体連合会
はじめに
ダイバーシティ(多様性)、エクイティ(公平性)、インクルージョン(包摂性)(DEI)は、イノベーションの源泉であり、社会・経済のサステナブルな成長に欠かせない要素であるとともに、先行き不透明な時代の中で、企業のレジリエンスを高めるうえでも必要不可欠である。
こうしたDEIを尊重する社会の実現には、性別や国籍、年齢等にかかわらず、多様な人財の持つ様々な価値観や考え方を受容し、全ての人が活躍できる環境整備が必要である。そのためには、政府や自治体における施策の見直しや、企業・教育現場などあらゆる組織における人的投資の充実、個人の意識改革・行動変容をはじめ、効果的な施策を同時並行かつ継続的に進めていく必要がある。
経団連では、DEIの推進を通じたイノベーションを喚起するとともに、企業の事業変革を促し、企業価値の向上に繋げるべく、各社の取り組みを加速する活動を展開してきた。
とりわけ、人口の半分を占める女性のエンパワーメントにおいて、我が国は世界に大きく立ち遅れており#1、取り組みの加速化が急務である。経団連では、この状況を打破するべく、2021年3月に、2030年までに女性役員比率30%以上を目指す「2030年30%へのチャレンジ~#HereWeGo203030~」を開始したほか、キャリアステージごとの課題を取り除くことによる、タレント・パイプラインの強化も図っており、各企業も、経営トップによるコミットメントの下、取り組みを強化している。
一方、各社の取り組みだけでは解決できない、女性活躍を阻害する社会制度の課題もある。その一つとして見直しが求められているのが、婚姻時に夫婦いずれかの姓を選択しなければならない「夫婦同氏制度」(民法第750条)である。「夫婦同氏制度」は、DEIの本質に照らし、時代とともに変化し多様化していく価値観や考え方、社会実態に合わせて、一人ひとりの「選択肢」を増やす観点からも見直しが必要である。そこで、今般、同制度を改め、希望すれば、不自由なく、自らの姓を自身で選択することができる制度を早期に実現すべく、政府に提言する。
1.夫婦の姓を取り巻く社会環境の変化
現行民法では、婚姻に際し、夫または妻のいずれか一方が必ず姓#2を改めなければならない。妻の姓・夫の姓のいずれの姓を選ぶことも可能ではあるものの、実際には95%の夫婦が夫の姓を選び、妻が姓を改めている#3。そのため、アイデンティティの喪失や自己の存在を証することができないことによる日常生活・職業生活上の不便・不利益といった、改姓による負担が、女性に偏っているのが現実である。
また、家族観に対する国民の意識も変化している。我が国では、人口の都市部集中、核家族化、晩婚化、少子化、国際結婚や離婚の増加など、家族をめぐる環境も大きく変化するとともに、家族のあり方も多様化している。女性活躍の進展を受け、企業は社員のキャリアの連続性を重視し、通称の使用を認めてきた。経団連調査#4では91%の企業が、通称使用を認めているが、一方で企業の現場では、社員の税や社会保険等の手続に際し、戸籍上の姓との照合などの負担を強いられてきたほか、結婚・離婚といったセンシティブな個人情報を、本人の意思と関係なく一定の範囲の社員が取り扱わねばならないこととなっている。昨今、とりわけ長期的にキャリアを形成する女性、グローバルに活躍する女性、役員をはじめ意思決定層に登用される女性、自ら起業する女性等の増加に伴い、女性が不便・不利益を被る場面が一層増しており、経団連調査#5では、88%の女性役員が「旧姓の通称使用」が可能である場合でも、新姓への変更手続きをはじめ、戸籍上の姓の変更に伴い、「何かしら不便さ・不都合、不利益が生じると思う」と回答している。
国際的には、夫婦同姓としていた国が次々と法改正を実施し、現在、婚姻時に夫婦同姓しか選択できない国は日本のみとされている。世界で人権意識が益々高まるなか、国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)は、日本に対し、人権侵害やジェンダー平等といった観点から、夫婦同姓の強制を廃止するよう、これまで2003年、2009年、2016年の3度にわたり是正勧告を行っており、本秋には、8年ぶりに日本への定期報告審議を行う予定である。日本のジェンダー平等政策が国際基準に照らして審議されることから、日本政府の対応が注目される。
2.「選択的夫婦別姓制度」をめぐる政府・司法の動き
政府は、1991年から法制審議会において議論し、1996年に、選択的夫婦別氏制度の導入を答申した。これを受け、法務省では、同年および2010年にそれぞれ改正法案を準備している。他方、いずれの法案も当時の政府与党内で様々な議論があり、国民の意識に配慮しつつ、慎重な検討を行う必要があるとされた結果、国会には提出されていない。
司法では、現行の夫婦同氏制度をめぐり、同制度が憲法の定める幸福追求権や法の下の平等に違反しており、国会がこれを是正する立法措置を講じないことを理由とする国家賠償の請求や、夫婦別氏での婚姻届の受理申立てといった訴訟がなされたが、2015年の最高裁大法廷判決は、氏は家族の呼称として意義があること等を判示し、夫婦同氏制度は、憲法に違反していないと判断。また、2021年の最高裁大法廷決定も同様の判断を下した。ただし、いずれも、選択的夫婦別姓制度に合理性がないとまで判断したものではなく、夫婦の姓に関する制度のあり方は、「国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならない」としたことに加え、これらの判決・決定には複数名の裁判官から反対意見が示されたことも注目に値する。
一方、政府は、「第5次男女共同参画基本計画」(2020年12月閣議決定)において、夫婦の姓に関する具体的な制度のあり方に関し、「国民各層の意見や国会における議論の動向を注視しながら、司法の判断も踏まえ、更なる検討を進める」と記載している。法制審議会の選択的夫婦別氏制度の提案とは別に、家制度や戸籍制度は日本の社会に深く根付いているとの観点から、通称使用の法制化という形での提案をする動きもある。いずれにせよ、希望する者が不自由なく自らの姓を選択できる制度の実現に向けた具体的な検討が待たれるところである。
3.旧姓の通称使用の拡大と課題
官民の職場では、女性の社会進出の進展を踏まえ、改姓によるキャリアの分断等を避けるため、職場における旧姓の通称としての使用を推進してきた。公的証明書や各種国家資格等でも婚姻前の姓(旧姓)の併記が可能になるなど、政府の施策としても通称使用が拡大され、経済界においても、通称使用は定着している。
他方、通称は法律上の姓ではないため、旧姓併記を拡大するだけでは解決できない課題も多い。また、通称使用は日本独自の制度であることから、海外では理解されづらく、寧ろダブルネームとして不正を疑われ、説明に時間を要するなど、トラブルの種になることもある。
ビジネスの現場においても、女性活躍が進めば進むほど通称使用による弊害が顕在化するようになった(具体的な事例は別紙に記載。)
これらのトラブルは、これまでは当事者が自身のキャリアを築いていく上での障壁とみなされていたが、女性活躍の着実な進展に伴い、企業にとっても、ビジネス上のリスクとなり得る事象であり、企業経営の視点からも無視できない重大な課題である。
また、企業では男女雇用機会均等法において、労働者の募集・採用時に身長や体重等の要件を合理的な理由なく設けることや、募集・採用・昇進・職種変更時に転居を伴う転勤に応じることができることを要件として設けることは、女性に相当程度の不利益を与える「間接差別」#6とされ、禁止されている。95%の夫婦において妻が改姓している現在の夫婦同氏制度は、女性に相当程度の改姓による不都合・不利益を与える「間接差別」に当たる惧れがあるとの指摘もある。
さらに、改姓による不利益・不都合を理由に結婚を諦める人や、事実婚や海外での別姓婚を選択する人もいる。その中には、人生の伴侶と別の姓にしたいというよりも、あくまで生まれ持った姓を変えずに名乗り続けることを、法律婚の「選択肢」として認めてほしいとの声も多い。配偶者と同姓となることも、生まれ持った姓を維持することも、「選択できるようにすること」が課題である。
4.政府への要望
以上の理由から、政府には、通称使用による課題を解消し、夫・妻各々が、希望すれば、生まれ持った姓を戸籍上の姓として名乗り続けることができる制度の早期実現を求めたい。
この点、民法第750条を改正し、婚姻時に夫婦同姓・別姓のいずれをも選択できる選択的夫婦別氏制度の導入を内容とする1996年の法制審議会の答申は、現在においても、社会の実情を踏まえた極めて妥当な内容である。他方、通称使用を法制化する案など、他にも女性の活躍を阻害しているビジネス上の課題を解決し、自らが選択する姓を名乗れるようにする案も提案されている。
国民の意識・社会の環境も変容しており、制度の見直しの機運が高まっている。「国会で論ぜられ、判断されるべき」事柄との最高裁判所の判決が出されてから8年が経過している。政府が一刻も早く改正法案を提出し、国会において建設的な議論が行われることを期待したい。
おわりに
一人ひとりの姓名は、性別にかかわらず、その人格を示すものであり、職業人にとっては、これまで築いてきた社内外の実績や信用、人脈などが紐づく、キャリアそのものである。これらを保持するためにも、結婚というライフイベントを経ても、本人が望めば自らがアイデンティティを感じる姓を選択できるように社会制度を見直すことは、さらなる女性活躍の観点からはもちろん、性別に関係なくすべての人が自らのキャリアやアイデンティティを守る観点からも、大切な取り組みである#7。
なにより、DEIの本質は、よりイノベーティブな「選択肢」が与えられ、一人ひとりがそれぞれの考えの下、生き方を選択できることである。不自由なく自らの姓を選択できる制度の実現は、我が国が様々な価値観や多様性を包摂し、誰にとっても明るい未来である「選択肢のある社会」を目指していくうえで強力なメッセージになると確信している。
(別紙) 旧姓の通称使用によるトラブルの事例
- ① 契約・手続き等を行う際の弊害例
- 多くの金融機関では、ビジネスネームで口座をつくることや、クレジットカードを作ることができない。
- クレジットカードの名義が戸籍姓の場合、ホテルの予約等もカードの名義である戸籍姓にあわせざるを得ない。
- 通称では不動産登記ができない。
- 契約書のサインもビジネスネームでは認められないことがある。
- 役員就任時の法人登記の際、旧姓の併記は可能ではあるが、旧姓を証明するために戸籍抄本が必要である。
- ② キャリアを積むうえでの弊害例
- 研究者は、論文や特許取得時に戸籍上の氏名が必須であり、キャリアの分断や不利益が生じる。
- 国際機関で働く場合、公的な氏名での登録が求められるため、姓が変わると別人格としてみなされ、キャリアの分断や不利益が生じる。
- ③ 海外に渡航する際の弊害例
- 社内ではビジネスネーム(通称)が浸透しているため、現地スタッフが通称でホテルを予約した。その結果、チェックイン時にパスポートの姓名と異なるという理由から、宿泊を断られた。
- 海外ではセキュリティが強化されており、公的施設のみならず民間施設等においても、入館時に公的IDの提示を求められる。その際、ビジネスネームが記載されている名簿と、公的ID上の名前が異なるとゲートを通れない。そのため、いつも結婚前の古いパスポートを持ち歩き、説明・証明するのに時間を要する。
- 空港では、パスポートのICチップのデータを読み込むが、そこに旧姓は併記されていない。よって、出入国時にトラブルになる。
- ④ プライバシーの侵害
- 民間企業において、結婚・離婚に伴う改姓手続きにおいて、一定範囲で届け出が必要となり、その情報の取り扱いにおける保護範囲も不明瞭で、プライバシーの侵害につながりかねない。
- 世界経済フォーラム「ジェンダーギャップ指標 2024 年版」では、日本の総合順位は146ヵ国中118位。中でも、政治分野(113位)と経済分野(120位)における女性参画の遅れが指摘されている。
- 日本においてファミリーネームにあたる用語は「氏」「姓」「名字」「苗字」等があるが、本提言では、現行法制や法制審議会の答申した制度を表現するときには、夫婦同「氏」制度、それ以外の部分では「姓」を使用している。
- 厚生労働省「人口動態統計」(2022年)
- 経団連「企業における社員の姓(氏)の取扱いに関する調査結果」(2024年)
- 経団連「女性エグゼクティブの姓(氏)の取扱いに関する緊急アンケート結果」(2024年)
- 性別以外の事由を要件とする制度や取扱いであっても、結果的に他の性の構成者と比べ一方の性の構成者に相当程度の不利益を与えるものを、合理的な理由なく講ずること。
- 経団連「女性エグゼクティブの姓(氏)の取扱いに関する緊急アンケート結果」(2024年)では、「歴史的に継承されている姓や、稀少性の高い姓など、姓にこだわりのある方は、男女とも婚姻による変更は悩むところ」であり、柔軟な選択が可能な制度が必要との指摘があった。