参与・棒線事業部釜石製鐵所長 谷田雅志 (たにだ まさし) |
まず初めに、東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、復旧のために物心両面にわたるご支援をいただいた皆様に厚く御礼申し上げたい。
新日本製鐵釜石製鐵所は、3月11日、甚大な被害を受けた。線材工場、発電所は少々高い場所に位置しているため津波での損壊はなかったが、線材中間材料や石炭の揚陸、製品の出荷を行う自社港湾設備は壊滅的な被害を受けた。地震発生時、私は出張先の盛岡にいたが、揺れの大きさから、即座に会合を中座し、釜石へ戻ることとした。地震により波打っている道路を注意深く通行し、釜石に到着したのは17時頃であったが、私が通行した直後に、安全確認のため釜石に通じる全ての峠道が3日間ほど閉鎖されたので、後で振り返ると間一髪のタイミングでの判断であった。釜石に到着するまでは正確な津波情報を入手できておらず、製鉄所の前の道路に津波で流された乗用車が浮いている様子を見て、極めて甚大な被害であると実感した。
所内では、既に災害対策本部が発足していた。電気、ガス、水道等のインフラが停止しているなかで、関連・協力会社を含めた従業員およびその家族の安否の確認を最優先に取り組んできた。名簿の整理と各地域の避難所を回っての安否確認を並行して実施したが、全員の確認を終えるまで3月一杯までかかった。
釜石は近代製鉄発祥の地で、江戸末期以降、150余年にわたって鉄づくりが行われてきた。第二次世界大戦では、米国艦隊による艦砲射撃が2度行われ、地域、製鉄所は壊滅的な被害を受けたが、強い意志で復旧・復興してきた。構内の建屋に記載しているが、釜石は「鉄と魚とラグビーの街」であり、地域とともに歩み鉄をつくってきた。
復旧・復興にあたって、関連・協力会社を含めた従業員には、「製鉄所よりも、家族を含めた生活基盤の確保と地域における復旧・復興への支援を優先すべし」と伝えた。家庭、地元の地域が安定して、初めて従業員も安心して働くことができるからである。これまでの活動を通じて、「所員一人ひとりが、長年地域で様々な役割を担い、それが当社に対する地域の信頼に繋がっていること」「自ら考え現場・現物で行動する」など、弊社の「グループ企業理念・社員行動指針」に盛り込まれた内容が、復旧活動においても重要になったことを強く実感している。数多くの支援物資を頂戴したが、製鉄所のみで使用するのではなく、釜石市にも提供した。また、行政機関等の要請に応え、製鉄所施設や遊休地について、事務所、ガレキ置き場や仮設住宅用地として提供した。さらに、延べ6000名を超える避難者の方に浴場を利用していただいた。新日鉄釜石ラグビー部を母体として発足したクラブチーム「釜石シーウェイブス」の選手たちも、「日頃お世話になっている地域へ恩返しがしたい」と、自主的に様々なボランティア活動に取り組んでくれた。
4月13日に生産を再開した線材工場 |
線材の生産再開については、地域の復旧・復興とのバランスを踏まえて慎重に進めることとしていたが、釜石市や市民の皆様から「製鉄所が再稼動して初めて地域の復興がスタートする」という期待の声をいただいたことなども踏まえ、3月末に生産再開に向けて本格的に準備を進めることを決断した。残念ながら、4月7日に発生した余震のため、再度、設備点検を行う必要が生じたが、所員は粘り強く、突貫で対応してくれた。
生産を再開した4月13日には、宗岡正二社長が釜石を訪問し、「釜石は近代製鉄発祥の地。先達が苦労して近代製鉄を始めた場所である。新日鉄ある限りこの釜石とともに歩む。釜石製鐵所の復旧を全面的に支援する」と激励し、所員の士気が大いに高まった。
当所の復旧に関しては、7月1日に13.6万KWという岩手県で最大の出力規模を有し、県内の一般世帯の電力需要の約4割を賄うことができる火力発電所が東北電力へ送電を再開し、自社港湾設備については、7月下旬に線材中間材料の揚陸を、9月上旬に石炭の揚陸を再開した。足下は、製品の出荷設備の復旧に全力を挙げており、今年度末までに完了する予定であるが、地域の復旧・復興に対しても、弊社グループの技術を活かして貢献していきたいと考えている。
釜石では日常の生活は平安を取り戻しつつあるが、地域の復活・復旧・復興はまさにこれからが正念場である。地域と共に生きる製鉄所の所長として、本稿を「釜石の復活に全力で邁進する」という「誓いの狼煙」として発信させていただくとともに、引き続き自らが先頭に立って尽力し、この難局を乗り越えていきたいと考えている。